東京計画1960:東京湾に浮かぶはずだった「海上都市」の夢

東京計画1960。人類未完プロジェクト。

「もし、都市が海の上で成長し続けたら?」

1960年、日本の建築界の巨星・丹下健三が投じた問い。
しかも、それを単なる空想のまま終わらせようとはしませんでした。

彼は、膨張する都市のエネルギーを真正面から受け止め、
次の時代を生きる東京のかたちを、本気で描こうとしたのです。

それは、常識を軽々と飛び越えた未来の設計図、
人類がまだ見ぬ都市の「成長のかたち」を提案する挑戦でした。

そう、それが「東京計画1960」

この記事では、この未完の構想がどんな未来を夢見て、
なぜ実現しなかったのかを静かに辿ってみます。

目次

東京計画1960とは?

まるで生命の樹のように、都市が海へと枝を伸ばす。
東京計画1960は、既存の都市の限界を超えるためのあまりにも大胆な挑戦状だったのかもしれません。

この計画は単なる建築物の設計図ではなく、
都市がどう生き、成長すべきかという哲学そのものだったように思います。

そこには、人口増加と交通渋滞という当時の東京が抱えた課題を、
海上へと展開することで解決しようとする思想がありました。

もし実現していれば、東京の地図は今とは全く異なる形になっていたのは間違いないでしょう。

いつ・誰が・どこで・何を目指したのか

東京計画1960は、建築家の丹下健三と彼の研究室(丹下研究室)のメンバーによって構想されました。

1960年5月に東京で開催された「世界デザイン会議(World Design Conference)」で発表され、
その後、1961年1月1日にはNHK総合の45分番組で計画の全体像が紹介されています。

提案の骨子は、東京湾を横断する線形(リニア)の都市軸を新設し、
既存の「都心集中」から「線形都市」へと都市構造を転換することでした。

※用語注
都市軸(シビック・アクシス):都市の幹線交通・業務中枢・公共施設を束ねる骨格的な線状インフラ。
東京計画1960では海上に新設する背骨として構想。

なぜ立ち上がったのか(当時の状況)

背景には、戦後の高度経済成長と東京圏への急速な人口集中がありました。

1960年前後、東京圏は1,000万人規模へ達しつつあり、
住宅難・交通混雑・地価高騰などの問題が顕在化していました。

このまま既存の放射状都市モデルに頼る限りはこの問題をさばき切れないという危機意識が、
都市の骨格そのものを作り替える提案を後押ししました。

東京計画1960の技術と仕組み

この計画の心臓部は海上に据えた巨大な都市軸と、
それに接続する枝状の居住・業務ゾーン
でした。

都市を「完成しない、成長し続ける生命体」と見なすメタボリズムの思想を、
海上に広がる巨大な建築構想として具現化しています。

※用語注
メタボリズム:「新陳代謝」を掲げた日本発の建築運動。
人口・社会の変化に応答して、建築や都市が増殖・置換できるあり方を追求。

計画では、交通・業務・行政機能を多層的に束ねた線形の背骨を東京湾上に敷設し、
そこから直交方向に居住ストリートを伸ばす構成が提示されました。

居住は巨大なAフレーム構造体に個別ユニットを「吊り下げ・挿し替える」イメージで、
成長と更新に耐える柔軟性を確保しています。

中核となる技術要素

都市軸のスケール袋(北西)から木更津(南東)まで約80kmを横断する線形都市。
モジュールは約9km単位で段階拡張(NHK番組紹介・研究解説に一致)
交通システムループ状の多層高速道路と鉄道・地下鉄を一体化。
歩行者動線を車両動線から分離し、都市の「可動性」を中核機能と定義
居住システムAフレームの巨大骨格内に、規格化された居住ユニットを装着・
更新する方式(カプセルライクな置換性)
実装プロセス海上の主要軸を段階整備し、都市の成長に合わせて外洋側へ伸長する「サイクル拡張」

どのように実現しようとしたか

  • 長大橋梁・海上土木を援用して都市軸を海上に築く
  • 業務・行政・商業機能を軸上へ
  • 居住をその直交方向へ展開

このようにして職住近接と多層交通により通勤ピークを分散し、
成長に応じてモジュール単位で拡張・更新する構想でした。

計画の骨子

  • 線形都市の全体像: 池袋—木更津を結ぶ約80kmの都市軸
  • 拡張モジュール: 約9kmの反復ユニットで段階的に増殖
  • 交通の三層構成: ループ型の多層高速道路+鉄道・地下鉄の統合
  • 居住形式: 巨大Aフレーム内に交換可能なユニットを装着
  • 想定規模: 約500万人規模(※居住・輸送のどちらを指すかは資料間で表現に揺れがありました)

東京計画1960はなぜ未完に終わったのか

東京計画1960もまた、その壮大さゆえに、
時代の技術と社会が追いつけなかった提案となりました。

未完の要因は複合的です。

技術的ハードル、巨額コスト、既存制度との整合。

そして社会的合意形成の困難。

結果として、原理提案にとどまり、
実装へ移行するための制度設計・財政スキームは成立しませんでした。

技術的・安全上の課題

地震・台風多発域の東京湾に数十km規模の海上メガストラクチャを恒久設置する耐震・耐風・維持管理設計は、当時の技術成熟度を超えていました。

歩車分離・多層交通自体は有効でも、
海上での避難計画・ライフライン二重化・更新時の運用継続など、
詳細設計段階で解決すべき課題は膨大だったのです。

政治的・経済的・社会的要因

国家規模の財政動員が前提となる建設費の調達、
海上占用・行政区分・所有権をめぐる法制度、
既存都心から海上都市への段階移行に対する市民・企業の合意。

いずれも実装のボトルネックでした。
提案の内容があまりにも斬新すぎて、
社会の理解や合意が追いつかず、実現に結びつきませんでした。

東京計画1960がもし実現していたら

東京湾に都市が浮かぶ。

人々の通勤は、地上・海上・空中をつなぐ多層の交通ネットワークによって混雑が分散され、
住まいは人生の節目に合わせて簡単に取り替えられる。

そんなふうに柔軟に成長できるしくみとなる。

つまり、都市全体が呼吸するように変化し、
人も建物も時間とともに更新されていく「動的な都市生活」が実現していたかもしれません。

当時描かれていた未来像

人々は海上の中枢エリアで働き、
静かな住まいは巨大な骨格構造〈Aフレーム〉の中に整然と吊り下げられている。

都市の中央を通る軸…いわゆる道路には、自動運転の交通システムが途切れなく走り、
歩行者の通路は高架へ分けて安全と快適さを保つ。

都市そのものは、必要に応じて建物やインフラを入れ替えながら常に姿を更新し、
時代に合わせて進化し続ける。

そんな「生きている都市」として構想されていました。

現代からの展望と課題

現代の技術で部分的に「実行可能」に見える断片はあります。

たとえば東京湾アクアラインのように、湾横断インフラの限定的実装は現実化しました。

しかし、巨大海上都市の恒久運用には、
環境影響評価、災害対応、
コミュニティの孤立を避ける都市社会設計など、
依然として大きな課題が残ります。

東京計画1960は、技術可能性だけでなく、
都市に何を求めるのかという根源的な問いを、
今なお突きつけています。

年表(Timeline)

年月出来事
1958年頃丹下研究室で東京の都市問題に対する研究に着手。
1960年5月世界デザイン会議(東京)で「A Plan for Tokyo, 1960」を発表。
1961年1月1日NHK総合テレビで45分番組として計画を紹介。
1961年書籍『東京計画1960』(新建築社)刊行。
1989年 メタボリズム運動の象徴的プロジェクトとして世界的に反響。
1989年東京湾アクアライン着工(「湾横断」という発想の限定的実装例)。

FAQ

東京計画1960はいつ始まったのですか?

構想は1950年代後半から進められ、1960年5月の世界デザイン会議で公式発表、
1961年1月1日にNHKが放映しています。

なぜ中止されたのですか?

公式な「中止」決定はなく、採択・実装に至らなかったというのが実情です。
技術成熟度、巨額コスト、制度整備・社会的合意形成の困難が主因です。

現在も研究は続いているのですか?

計画そのものの実装研究は継続していませんが、
線形都市・可動性重視・増殖可能なメガストラクチャといった思想は、
後続の都市計画やスマートシティ構想に影響を与え続けています。

東京計画1986や株式会社東京計画とは関係がありますか?

「東京計画1986」は丹下による後年の提案で、1960年案の思想を別文脈で再構成したものです。
同名の民間企業「株式会社東京計画」は本構想とは無関係です。

まとめ

  • 結論: 東京計画1960は、東京湾上に約80kmの線形都市軸を築くことで、
    都市を「成長し続ける生命体」として再設計する提案でした。
  • 根拠: 9kmモジュール/多層交通/Aフレーム居住という増殖可能なメガストラクチャで、
    可動性を都市機能の中核に据えました。
  • 未完理由: 当時の技術・財政・法制度・合意形成の限界により、原理提案にとどまりました。
  • 未来インパクト: 実装はされなかったものの、思想的遺産はメタボリズムや後続の都市計画に
    長期的影響を与えています。

東京計画1960は、紙上の夢に終わりました。

しかしその問いー都市はどのように生き、変わり続けるべきかーは、今も私たちの足もとで続いています。

今はそういった哲学・美学を無くしてしまったように思えてなりませんが…。

参考資料・出典(一次情報・公的・学術)

【計画原典・近接一次資料】

  • 丹下健三・都市・建築設計研究所(1961)『東京計画1960』新建築社(原典。図版・数値の最終確認は本書の精読が必要)。
  • NHK総合テレビ(1961/01/01)「東京計画1960」(放送記録の二次記述に基づく)。

【公的・学術的解説・査読相当】

  • Wikipedia(英語)「Metabolism (architecture)」Plan for Tokyo, 1960–2025 の項(80km軸・9kmモジュール・多層道路・Aフレーム・NHK放映の要点記載)。
  • Harvard GSD Urban Design Case Studies「A Plan for Tokyo: 1960」(18km海上スパイン・約500万人規模の言及)。
  • Z. Lin(1996)“Mobility, Structure, and Symbolism in Kenzo Tange’s 1960 Plan for Tokyo” ACSA Annual Meeting Proceedings(可動性概念の分析)。
  • Liverpool University Press(2018)論文PDF “Kenzo Tange’s A Plan for Tokyo, 1960”(学術的再評価)。
  • Paul Keel(MIT, 2001)「Introduction to Kenzo Tange’s Plan for Tokyo」(日輸送500万人の記述。原典照合未了のため「約500万人規模」表現で統一)。
  • Mori Art Museum Blog(2011)“Metabolism in a minute”(世界デザイン会議とメタボリズム結成の文脈)。
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