ヒト脳プロジェクト:脳の完全シミュレーションに挑んだ10年間

ヒト脳プロジェクト。人類未完プロジェクト事典。

もしも。人間の脳の中身を丸ごとコンピュータの中に再現できたなら?

病の原因を解き明かし、意識の謎に迫り、全く新しいAIが生まれるかもしれない。

そんな壮大な夢を掲げ、欧州連合(EU)が10年にわたり巨額の予算を投じたプロジェクトがありました。

それが「ヒト脳プロジェクト(Human Brain Project: HBP)」です。

このプロジェクトは、完遂と未完、両方の顔を持っています。

初期の構想として語られた「ヒト脳の完全シミュレーション」という目的地には、
少なくとも2023年の公式終了時点では到達していませんでした。

一方で、EBRAINSという研究基盤に形を変えて、
今もなお世界の科学者たちを新たな大陸へと導びいています。

では、この記事では、このプロジェクトについて、みていきましょう。

目次

ヒト脳プロジェクトとは?

例えるならば。
まるで図書館に眠る無数の文献を読み解き、一つの巨大な「知の聖堂」を再構築するような試み。

ヒト脳プロジェクト(HBP)は、まさにそのような挑戦だったと言えるかもしれません。

HBPは、人間の脳に関する膨大なデータを統合し、
スーパーコンピュータ上で詳細なモデルやシミュレーションを構築することを目指した、
巨大科学プロジェクトです。

それも、単一の研究ではなく、神経科学、医学、情報工学(ICT)など、
多様な分野の専門家が結集する学際的な取り組みとして構想されました。

2013年〜2023年にかけて、
EUの「未来・新興技術(FET)フラッグシップ」プロジェクトとして支援され、
その成果は「EBRAINS」という形で未来に引き継がれています。

※用語注
FETフラッグシップ:EUが長期的・大規模に重点投資する研究開発プログラムの一つ。
ヒト脳プロジェクトはその最初期のフラッグシップの一つとして採択されました。

いつ・誰が・どこで・何を目指したのか

ヒト脳プロジェクトは、
2013年10月1日に欧州連合(EU)のFETフラッグシップとして正式に始動しました。

スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)が調整役(コーディネーター)を担い、
最終的には19カ国・155のパートナー機関(大学や研究所など)が参加したと報告されています。

当初において、最も野心的なビジョンは、
スイスの神経科学者ヘンリー・マークラム教授が提唱した
スーパーコンピュータによるヒト脳全体の詳細なシミュレーション」の実現でした。

TED講演などで「10年以内にヒト脳のシミュレーションに到達しうる」と語られたこのメッセージは、
HBPを象徴するフレーズとして広く知られるようになります。

もちろんEUの公式な目標文書においては、
「ヒト脳を段階的に理解するための多尺度モデルの構築」
「脳データと計算資源を統合する研究インフラの整備」
といった、より現実的な表現が用いられています。

それでも、「ヒト脳を丸ごとシミュレートする」というイメージは、
HBPの期待と不安の両方をかき立てることになりました。

どんな成果を期待していたのか?

それは、アルツハイマー病やパーキンソン病といった脳疾患のメカニズム解明、
精神疾患の客観的な診断指標、
そして脳の構造と動作にヒントを得た新しいコンピュータの開発などが含まれていたのです。
(ニューロモルフィック・コンピューティング)

※用語注
ニューロモルフィック・コンピューティング:脳の神経回路の構造や動作原理を模倣したコンピュータ方式。
従来の「ノイマン型」コンピュータに比べ、超省電力で学習・認識を行うことを目指す技術です。

なぜ立ち上がったのか(当時の状況)

プロジェクトが始まる前から、脳科学の世界にはものすごい量のデータが集まり始めていました。

アメリカの「ヒト・コネクトーム・プロジェクト」のような取り組みも進み、
MRIやfMRI、電気を使った脳活動の測定、遺伝子の働きを調べる解析などによって、
脳の構造や動きに関するデータが一気に増えていったのです。

ただ、そのデータはそれぞれ別々の研究室やプロジェクトにバラバラに保存されていて、
お互いにうまくつなげて使うことが難しい状況でした。

この状況を変える「切り札」として注目されたのが、「シミュレーション」という考え方でした。

EPFL(スイス連邦工科大学ローザンヌ校)の「ブルー・ブレイン・プロジェクト(BBP)」では、
マウスの大脳皮質の一部(新皮質カラム)について、細かい構造をコンピュータ上に再現し、
その動きをシミュレーションする研究が進んでいました。

マークラム教授たちは、このやり方をヒトの脳全体に広げ、
バラバラに集まっている知識を一つのコンピュータモデルにまとめてしまえば、
大きな飛躍的成果(ブレイクスルー)が生まれる、と考えたのです。

この大きな構想は、ヨーロッパが進めていた
「研究基盤を強くする」「社会をデジタル化する」
という方針とうまくかみ合い、
HBPは「人類ゲノム計画」に並ぶような超大型プロジェクトとして選ばれました。

とはいえ、その後の公式な方針は少しずつ変わっていきます。

最初のように「ひとつの巨大な脳モデル」を作るよりも、
「いろいろなモデルやデータをつなぎ合わせて使える仕組み(インフラ)を整える」
ということに、重心が移っていきました。

ヒト脳プロジェクトの技術と仕組み

脳という、とても複雑で分かりにくい世界を理解するために、
HBPは「デジタルな地図」と「進む方向を示すコンパス」を同時につくる必要がありました。

HBPの技術の中心にあったのは、
「ひとつの超巨大な脳シミュレーション」を作ることではありません。

いろいろな種類の脳データを集めて整理し、モデル(仮想的な脳の姿)にまとめ、
その上でシミュレーションを回せるようにする
「公開された研究基盤(プラットフォーム)」を作ることでした。

この考え方は、プロジェクトの中期以降にはっきり打ち出され、
最終的に「EBRAINS」と呼ばれるデジタル研究インフラとして形になっていきます。

※用語注
EBRAINS:HBPの成果として構築された、脳関連データ・脳アトラス・シミュレーションツール・スーパーコンピュータ資源などを統合提供する欧州の研究インフラ。HBP終了後はベルギーを拠点とする国際非営利団体(EBRAINS AISBL)が運営しています。

中核となる技術要素

HBPは、当初は「6つのICTプラットフォーム」を掲げてスタートしました。
(神経情報学、脳シミュレーション、医療情報学、高性能計算、ニューロモルフィック・コンピューティング、ニューロロボティクス)

その後、再編を経て、これらは最終的にEBRAINSという一つの屋根の下に統合されます。

その中核は、次の3つの柱として整理できます。

1. 脳アトラスとデータ統合(Neuroinformatics):
世界中から集められた、さまざまな細かさの脳データ(分子レベルの情報から、脳全体を写したMRI画像まで)を同じルールで整理し、三次元の「デジタル脳地図」に重ねていくための技術です。
EBRAINSでは、このような脳地図を、人間だけでなく複数の動物種についても、
いくつもの層(構造・機能など)に分けて提供しています。

2. シミュレーションとモデリング(Brain Simulation):
ブルー・ブレイン・プロジェクトなどで積み上げられた成果を土台にして、
脳の特定の場所や神経回路の動きをコンピュータ上で再現するための技術です。
1個の神経細胞(ニューロン)を細かく再現したモデルから、
たくさんの神経細胞がつながった大きなネットワークの動きまで、
いろいろなスケールのモデルが作られました。

3. ニューロモルフィック・コンピューティング(Neuromorphic Computing):
脳の神経回路がもともと持っている、
「電気をあまり使わずに、効率よく情報を処理するしくみ」を真似してつくる、
新しいタイプのコンピュータ(SpiNNaker や BrainScaleS など)の開発のことです。
HBP/EBRAINSは、こうしたハードウェアと、
脳のシミュレーションモデルをつなげて実験できる場としても使われました。

どのように実現しようとしたか

HBPの狙いは、こうした中心的な技術を、
まとめて「EBRAINS」という一つのサイト兼研究インフラに集めることでした。

そうすることで、世界中の研究者がEBRAINSにアクセスしさえすれば、

  • 共通ルールで整理された脳アトラス(脳地図)を見られる
  • 自分の持っているデータをアップロードできる
  • HBPがつないだスーパーコンピュータ(Fenix など)の計算資源を使って、
    脳のシミュレーションを実行できる
  • その結果を、ニューロモルフィック・チップやロボットに載せて試すことができる

…という一連の流れが成り立つ「仕組み(エコシステム)」を作ろうとしたのです。

言いかえると、HBPは「巨大な脳シミュレーターを一個作ること」よりも、
「世界中の研究者が、脳のシミュレーションやデータ解析を自由に試せる、そんな開かれた開発環境を作ること」
のほうを重視するように変わっていった、ということです。

HBPを構成した「数字」

  • プロジェクト期間: 10年間(2013年10月 – 2023年9月、EUのFETフラッグシップとして)
  • 参加機関数: 155機関(19カ国)
  • 総事業規模: 約6億700万ユーロ(EU拠出とパートナー拠出を含む総額)
  • 公表された学術成果: 3,000件以上(うち査読付き論文は2,000件超)
  • 開発・提供されたデジタルツール: 160種類以上(データベース、アトラス、解析・シミュレーションツールなど)
  • 中核的成果: 欧州の脳研究インフラ「EBRAINS」の構築とESFRIロードマップへの採択

ヒト脳プロジェクトはなぜ未完に終わったのか

HBPは10年にわたる「航海」を終えましたが、
最初に描かれていた「ヒト脳を完全にシミュレーションする」というゴールには、
まだたどり着いていません。

正確にいうと、未完というよりは…
プロジェクトそのものは、EUが決めていた期間をきちんと走り切って「終了」していますが、
その大きすぎる夢は、少なくとも今のところは「途中のまま」と言えます。

むしろHBPは、途中から「目的地そのもの」よりも、
「そこへ向かうための航海術=EBRAINSのようなインフラを作ること」に力点を移しました。

この大きな方向転換の裏には、純粋な技術的な限界だけでなく、
プロジェクト内部の人間関係や政治的な事情も深く関わっていました。

技術的・安全上の課題

最大の壁は、ヒト脳の圧倒的な複雑さでした。

成人のヒト脳には、およそ860億個前後のニューロン(神経細胞)と、
それらが織りなす100兆〜数百兆規模のシナプス(接続)が存在すると見積もられています。

この全てを、分子レベルや細胞レベルの詳細さで忠実にシミュレーションすることは、
当時のはもとより、2020年代半ばである現在の、
計算能力やデータの整備状況をもってしても、桁違いに困難です。

また、当初強調された
「トップダウン的にヒト脳全体のモデルを構築する」
というアプローチに対して、多くの神経科学者から

「そもそも入力すべきデータがまだ足りていない」
「脳の仕組みについて分かっていないことが多すぎる」

という本質的な批判が寄せられました。

例えてみるならば、未知の領域、空白地帯が多すぎる地図を、
いきなり世界全体の精密地図として完成させようとした、というところでしょうか。

さらに、実際のヒト脳のデータを扱う以上、
やはり、個人情報保護や倫理・安全性の問題も無視できませんでした。

HBP内には「Ethics & Society」プログラムが設けられ、
データの匿名化や同意取得、AI・シミュレーションの社会的影響などについてガイドライン作りが進められましたが、
「倫理的に安全であること」と「大胆な技術的挑戦」を両立させるのは、現実には容易ではありませんでした。

政治的・経済的・社会的要因

HBPはあまりにもスケールが大きかったため、スタートしてすぐから強い賛否を呼びました。
2014年には、著名な研究者をふくむ150人以上の神経科学者が連名で公開書簡を出し、

  • 計画の中心が「シミュレーション」に寄りすぎていること
  • 認知や行動の研究など、ほかの重要な分野が軽く扱われていること
  • 運営の決め方(ガバナンス)が分かりにくく、不透明であること

といった点を強く批判しました。

この「反乱」は、科学界だけでなく、社会や政治の世界にも大きな影響を与えました。
その結果、EUはHBPの計画を大きく見直さざるをえなくなります。

外部の専門家による評価(レビュー)が行われたあと、
プロジェクトのトップの体制が交代し、組織のつくりも大きく組み直されました。

そして目標の中心は、「ヒト脳を丸ごとシミュレーションする」という一つのゴールから、
「EBRAINSという開かれたインフラを整え、いろいろな分野の脳科学者たちにサービスを提供する」という、
より現実的で幅広い方向へと切り替わっていきました。

この内部での対立と、その結果として行われた路線変更は、
最初に強く打ち出された夢が「最後までやりきれなかった」大きな理由の一つだと言えます。

ですが、それと同時に、この経験から得られた反省や学びは、
「巨大な予算と人員を投じる大型プロジェクト(ビッグサイエンス)をどう進めるべきか」
を考え直すきっかけにもなりました。

ヒト脳プロジェクトがもし実現していたら

もし、HBPが当初の夢である「ヒト脳の完全なデジタルツイン」を完成させていたら?
今、私たちはどのような景色を見ていたでしょうか。

それが実現していたら、医学とコンピュータ科学の世界で「決定的な転換点」が来た、
と言ってもおかしくなかったかもしれません。

現実にはそこまでは行っていませんが、HBPが残したEBRAINSという基盤は、
そのような未来に向けて飛び立つための「滑走路」のような役割を少しずつ果たしはじめています。

※用語注
デジタルツイン:現実の対象(ここでは個々の患者の脳)と対応する、高精度なデジタル模型。
シミュレーションや最適化に用いることを想定した概念です。

当時描かれていた未来像

HBPが掲げた未来像の一つは、
アルツハイマー病患者などの脳のデジタルツインを作成し、
それに対して無数の新薬候補をコンピュータ上で(in silicoで)試す「デジタル臨床試験」でした。

これにより、従来の動物実験や人体での治験にかかる莫大なコストと時間を
大幅に削減できるのではないかと期待されていました。

また、脳ネットワークの働きと障害を細部まで理解できれば、
うつ病や統合失調症などの精神疾患を、
より客観的なバイオマーカーにもとづいて診断したり、
個別の脳の状態に合わせて治療を最適化したりする道も開けます。

さらに、脳の効率的な情報処理を模倣したAIは、現在のディープラーニングとは異なる、
より汎用性が高く省電力な情報処理技術につながるという期待もありました。

もちろん、これらの多くは現時点では「構想段階」あるいは限定的な実証の域を出ていません。

とはいえ、てんかん外科の分野で患者ごとの脳ネットワークをシミュレートし、
手術計画に役立てる研究など、デジタル脳モデルが臨床に接続しつつある実例も少しずつ現れています。

現代からの展望と課題

10年がたった今でも、HBPが掲げた「ヒト脳をシミュレーションする」という夢は、まだ途中のままです。
けれど、その中で作られたEBRAINSという仕組みは、その夢の続きを追いかけるための、とても強力な道具になっています。

今の脳科学の考え方は、HBPの初期のように
「すべてを一つの巨大モデルにまとめる」という発想ではなくなってきています。
そう、いろいろな種類のモデルやデータを、
EBRAINSのようなプラットフォームの上でつなぎ合わせて使うというやり方に移っているのです。

最初の夢は、さすがに大きすぎたと言えるかもしれません。
それでもHBPは、
「脳を本気で理解したいなら、その前提として、
研究者同士がデータやツールを共有できるインフラが必要だ」
という、とても大事な教訓を残しました。

EBRAINSそのものも、
2021年に欧州の研究インフラ(ESFRI)のロードマップに入り、
2024年からは「EBRAINS 2.0」として新たなEU支援を受けながら、
国際的な研究基盤として自立しようとしています。

HBPというプロジェクトの枠は終わりましたが、
その「未完のバトン」は、EBRAINSを使って研究を進める新しい世代の科学者たちに、
たしかに引き継がれていると言えるでしょう。

年表

年月出来事
2005年5月HBPの前身となる「ブルー・ブレイン・プロジェクト(BBP)」がスイスEPFLで開始。
2009年HBPの中心人物となるヘンリー・マークラム教授が、講演などで「10年以内にヒト脳のシミュレーションは可能」と発言し、大きな注目を集める。
2013年1月HBPがEUの「FETフラッグシップ」プロジェクトに選定される。
2013年10月ヒト脳プロジェクト(HBP)が正式に開始(初期実施協定フェーズ:SGA1)。
2014年7月150名以上の神経科学者がHBPの方向性やガバナンスを批判する公開書簡を発表。
2015年外部レビューを受け、HBPは大幅な組織再編と研究内容の方向転換(インフラ重視、EBRAINSへの集約)を開始。
2016年〜2019年第2期(SGA2)として、6つのICTプラットフォームを発展させつつ、EBRAINSの基盤となるサービス群を整備。
2019年10月HBPの中核的成果であるデジタル研究基盤「EBRAINS」が正式にサービスイン。
2020年プロジェクトは最終フェーズ(SGA3)に移行。EBRAINSの高度化と持続可能な運営体制づくりに重点が置かれる。
2021年EBRAINSが欧州研究インフラ戦略フォーラム(ESFRI)のロードマップに採択される。
2023年3月スウェーデン・ストックホルムにて、最後のHBPサミットが開催される。
2023年9月30日10年間のEUによるヒト脳プロジェクトのファンディング期間が公式に終了。
2023年10月〜EBRAINSが独立した国際研究基盤(EBRAINS AISBL)として活動を継続。各国ノードとともにサービスの維持・拡張を目指す。

    用語解説

    EBRAINS(EBRAINS AISBL)

    HBPが構築した、脳科学に関するデータ、アトラス、シミュレーション・ツール、スーパーコンピュータ資源などを統合的に提供するデジタル研究基盤。

    HBP終了後、ベルギーを本拠とする国際非営利団体(AISBL)として独立し、
    欧州の研究インフラ(ESFRI)に登録されている。

    ブルー・ブレイン・プロジェクト(Blue Brain Project)

    スイスEPFLが主導する研究プロジェクトで、HBPの技術的基盤の一つ。

    主にマウスの脳(特に新皮質カラム)の生物学的に詳細なデジタル再構築とシミュレーションを目指している。HBPとは独立したプロジェクトとして現在も継続中。

    ニューロモルフィック・コンピューティング(Neuromorphic Computing)

    「脳形態(ニューロモルフィック)」型のコンピュータ技術。

    従来のノイマン型コンピュータとは異なり、脳の神経回路の構造と機能を模倣し、
    低消費電力で高度な情報処理(学習や認識)を行うことを目指す。

    デジタルツイン(Digital Twin)

    現実の対象(装置や生体など)と動的に対応づけられた、高精度なデジタルモデル。

    シミュレーションや予測、最適化に用いられる。HBP/EBRAINSでは、
    個々の患者の脳ネットワークをデジタルに再現する構想などが議論されている。

    FAQ

    ヒト脳プロジェクトはいつ始まったのですか?

    2013年10月1日に、欧州連合(EU)の「未来・新興技術(FET)フラッグシップ」という大型支援プログラムの一つとして正式に開始されました。

    準備期間や前身プロジェクト(ブルー・ブレイン・プロジェクト)を含めると、2000年代後半から構想が進んでいたと言えます。

    なぜ中止された(未完に終わった)のですか?

    プロジェクトは「中止」されたわけではなく、
    2023年9月30日に10年間の予定されたファンディング(公的助成)期間を「満了」しました。

    ただし、初期に強く印象づけられた「ヒト脳の完全なシミュレーション」という
    壮大なイメージは達成されなかったため、「未完のプロジェクト」として語られることがあります。

    その背景には、技術的な困難さに加え、
    内部対立や外部レビューを経てプロジェクト方針が「脳シミュレーション単独」から
    「EBRAINSという研究インフラの構築」へ大きく変更されたことがあります。

    現在も研究は続いているのですか?

    はい。

    「ヒト脳プロジェクト」という名称でのEUによる10年間の助成は終了しましたが、
    その最大の成果であるデジタル研究基盤「EBRAINS」は独立した国際組織として存続しています。

    EBRAINSは、HBPが築いた脳アトラスやシミュレーション技術を世界中の研究者に提供し、
    脳科学研究のハブとして現在も活動を続けています。

    さらに、EBRAINS 2.0として2024年以降の追加支援も行われており、
    長期的なインフラとしての定着が図られています。

    米国の「BRAIN Initiative」とは違うのですか?

    はい、異なります。

    HBPとほぼ同時期(2013年)に始まった米国の「BRAIN Initiative」は、
    脳の活動をより精密に「測定・操作」するための革新的な新技術の開発に重点を置いています。

    一方、ここでいうHBPは、既存のデータやそこで得られた新しいデータを「統合」し、
    「シミュレーション」やデジタルインフラの構築に重点を置いていました。

    両者は脳解明という共通の目標を持つも、
    アプローチの異なる「いとこ同士」のような関係といったところでしょうか。

    まとめ

    • 結論: HBPは、ヒト脳全体のシミュレーションやデジタルモデルを目指しつつ、
      最終的には脳データとツールを統合する欧州の研究基盤「EBRAINS」を生み出した、
      EUの10年間の巨大科学プロジェクトです。
    • 成果: 「ヒト脳シミュレーション」自体は未完に終わりましたが、
      その過程で、脳データを集約・分析する世界最先端級のデジタル研究基盤「EBRAINS」が完成し、
      3,000件以上の学術成果や多数のツールが生まれました。
    • 未完の理由: 脳の圧倒的な複雑さに加え、プロジェクト内部の対立や外部評価を受けて方針が転換され、「ヒト脳の完全シミュレーション」という壮大な夢は、
      より現実的な「インフラ構築」へと軟着陸する形になりました。
    • 未来インパクト: HBPが残したEBRAINSという「海図」と「航海術」は、
      今も世界中の研究者が脳という未知の大陸を解明するための羅針盤となっています。
    • もし、あの壮大な夢が形を変えて実現する日が来るとすれば、
      それはHBPという「未完の巨人」の肩の上に立つ、未来の研究者たちによるものになるでしょう。

    脳のしくみは、今もまだ分からないことだらけです。

    その一方で、ヒト脳プロジェクトで集められた知識や整えられた仕組みは、
    病気の原因解明や新しい治療法の開発など、医学の世界に少しずつ貢献し始めています。

    いつかこうした研究の積み重ねによって、脳の病気や障害でつらい思いをする人が、
    少しでも減る日が1日でも早く来ることを願わずにはいられません。

    参考資料・出典(一次情報・公的資料)

    1. HBP公式報告書・EU公式発表

    1. European Commission / Human Brain Project. Pioneering digital neuroscience – The Human Brain Project 2013–2023(10年の成果概要パンフレット)
      • 概要: HBPの10年間の成果、参加機関数、予算規模、論文数、ツール数、EBRAINSへの移行などを定量的に整理した報告。
    2. European Commission. Human Brain Project – Final assessment and lessons learned(10-year assessment report)
      • URL: 欧州委員会デジタル戦略ポータル内のHBP評価報告書ページ
      • 概要: 外部専門家による最終評価報告書。プロジェクトの成果と課題、今後の研究インフラ政策への示唆をまとめる。
    3. European Commission. FET Flagships(Future and Emerging Technologies Flagship programmes)
      • 概要: FETフラッグシップとしてのHBPの位置づけと、長期的・大規模研究支援の枠組みを説明する公式情報。

    2. EBRAINSおよび関連プロジェクト

    1. EBRAINS AISBL. EBRAINS Research Infrastructure(公式ポータル)
      • 概要: EBRAINSが提供するデータ、アトラス、モデル・シミュレーションツール、高性能計算資源、ニューロモルフィック・プラットフォーム等の公式情報。
    2. ESFRI(European Strategy Forum on Research Infrastructures). EBRAINS – ESFRI Roadmap 2021 / 2024
      • 概要: EBRAINSが欧州の公式研究インフラとしてESFRIロードマップに採択された際の説明と位置づけ。
    3. Innovation News Network. “EBRAINS 2.0: Research infrastructure secures further €38m funding” (2024)
      • 概要: EBRAINS 2.0に対するEUの新たな資金拠出と、その目的(EBRAINSの長期的な持続可能性・サービス拡充)についての報道。
    4. EPFL. Blue Brain Project(公式サイト)
      • 概要: マウス脳の詳細シミュレーションを目指すブルー・ブレイン・プロジェクトの説明。HBPの技術的前身として位置づけられる。

    3. 科学論文・学術誌記事

    1. Amunts, K. et al. “The Human Brain Project—Synergy between neuroscience, computing, informatics, and brain-inspired technologies.” PLOS Biology 17(7): e3000344 (2019).
      • 概要: HBPの科学的戦略とインフラ構想を、プロジェクトを率いた研究者たちが総括した論文。
    2. Amunts, K. et al. “The coming decade of digital brain research.” Neuron 2024.
      • 概要: HBPとEBRAINSを踏まえた「デジタル脳研究」の今後10年の展望を述べた総説。
    3. Appukuttan, S. et al. “EBRAINS Live Papers – Interactive resource sheets for reproducible neuroscience.” Neuroinformatics 2023.
      • 概要: EBRAINSにおけるデータ共有・再現可能性向上のためのサービス「Live Papers」の設計と役割。
    4. Herculano-Houzel, S. “The human brain in numbers: a linearly scaled-up primate brain.” Frontiers in Human Neuroscience 3:31 (2009).
      • 概要: ヒト脳のニューロン数を約860億個と見積もる根拠となった定量研究。

    4. 他国の比較対象プロジェクト

    1. NIH. The BRAIN Initiative(米国BRAINイニシアティブ公式サイト)
      • 概要: 米国が主導する、脳活動計測・操作のための革新的技術開発プロジェクト。
    2. Human Connectome Project. HCP Young Adult – Project Protocols
      • 概要: ヒト脳の「配線図」を描くことを目指したヒト・コネクトーム・プロジェクトの公式情報。

    5. 論争・ガバナンスに関する情報源

    1. Open message to the European Commission regarding the Human Brain Project(2014年の公開書簡)
      • 概要: 150名以上の神経科学者が署名した、HBPの方向性とガバナンスに対する批判的メッセージ。
    2. Abbott, A. “Brain project draws fire from scientists.” Nature News (2014).
      • 概要: HBPに対する研究者コミュニティからの批判と、その背景をまとめたニュース記事。
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