アンギアーリの戦い:レオナルド・ダ・ヴィンチが挑んだ「壁の中の幻影」

アンギアーリの戦い。人類未完プロジェクト。

フィレンツェ、ヴェッキオ宮殿。

「五百人広間」の壁画の裏には、美術史上最大級の謎が眠っていると言われています。

万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが描こうとしたものの、
技術的な問題によって未完に終わり、
やがて別の絵画によって覆い隠された幻の構想。

それが「アンギアーリの戦い」です。

これは単なる「消えた絵画」の話ではありません。

ルネサンスの巨匠たちが競い合った国家プロジェクトでありながらも、
現代の科学調査と保存倫理の制約ゆえに、
なお全貌に近づくことができないという意味でも「未完のプロジェクト」です。

さらに近年は、
「そもそも大規模な本画としては最後まで描かれなかったのではないか」
という研究も現れ、謎はより多層的になっています。

目次

「アンギアーリの戦い」制作計画とは?

1503年、フィレンツェ共和国のプロパガンダ

この計画が動き出したのは1503年頃のことでした。

当時のフィレンツェ共和国は、メディチ家を追放して共和制を安定させるために、
市民の愛国心を強める大がかりな視覚的な仕掛けを求めていました。

その舞台となったのが、政治の中心であるヴェッキオ宮殿の「五百人広間」です。

共和国の終身ゴンファロニエーレ(実質的な最高指導者)ピエロ・ソデリーニは、
この広大なホールの壁画を、当時最高峰とされた二人の芸術家に依頼しました。

それが、レオナルド・ダ・ヴィンチ
そして、若くして頭角を現していたミケランジェロ・ブオナローティです。

レオナルドと結んだ契約書には、
当時フィレンツェ共和国の第二書記官だったニッコロ・マキャヴェッリの署名も残っています。

※用語注
ゴンファロニエーレ:本来は「軍旗持ち」を意味しますが、
この時期のフィレンツェでは共和国政府の筆頭職に位置づけられた役職です。

レオナルドに与えられたテーマは、
1440年6月29日にフィレンツェ軍がミラノ軍を破った「アンギアーリの戦い」

対するミケランジェロには「カッシーナの戦い」が割り当てられました。

二人の巨匠が同じ空間で腕を競う、まさに「世紀の対決」が企画されたのです。

このプロジェクトがなぜ立ち上がったのか:勝利の記憶と政治的意図

このプロジェクトの目的は明確でした。

このプロジェクトの目的は明確に二つありました。

第一に、アンギアーリの戦いという過去の勝利を強調し、
神がフィレンツェ共和国の自由を守っているというメッセージを示すことで、
政権の正当性を視覚的に示すこと。

第二に、非常に大規模で質の高い芸術作品を宮殿の中心に掲げることで、
外国の使節や市民に対し、共和国の文化面と軍事面での優位性を強く印象づけることでした。

この依頼に応えてレオナルドが描こうとしたのは、
馬と兵士が激しくもつれ合う、戦争の狂気をそのまま表した場面でした。
残されたスケッチや後世の模写からは、「軍旗を奪い合う」瞬間を中心に据えた、
非常に動きのある構図がうかがえます。

※ピーテル・パウル・ルーベンスによる模写
出典:Peter Paul Rubens, Public domain, via Wikimedia Commons

制作計画の技術と仕組み

中核となる技術要素:失われた技法「エンカウスティーク」への挑戦

レオナルドは、通常のフレスコ画法(濡れた漆喰に顔料を染み込ませる手法)を好みませんでした。

フレスコ画は乾燥が早く、彼が得意とする「熟考と修正を重ねる描き方」や
「スフマート(ぼかし技法)」に適さなかったからです。

「最後の晩餐」でも、彼は伝統的なフレスコではなく乾いた壁に実験的な技法を用いており、
保存上の問題を引き起こしました。

※用語注
フレスコ画法:湿った石灰質の下地に水で溶いた顔料を塗りつけ、
乾燥とともに下地と一体化させる壁画技法です。
スフマートは、輪郭を柔らかくぼかし、滑らかな陰影で立体感を出す技法を指します。

レオナルドがそこで試したとされるのは、
古代ローマの博物学者プリニウスの記録を手がかりにした、新しい油彩系の技法でした。

具体的にどんな方法だったかは史料が少なく確定できませんが、主に二つの説があります。

ひとつは、蝋を混ぜた顔料を使い、熱で定着させるエンカウスティークを応用したという説。

もうひとつは、油と樹脂を混ぜた独自の乾式壁画技法だったという説です。

どちらが正しいかは分かっておらず、配合や手順についても研究者の間で意見が割れています。

※用語注
エンカウスティーク:蜜蝋などを溶かした媒材に顔料を混ぜ、加熱して定着させる古代の絵画技法です。
レオナルドがどの程度この古代技法を忠実に再現したかは、現在も議論の対象になっています。

どのように実現しようとしたか:巨大な火力による乾燥

この技法には、熱で絵具を定着させながら乾かすという大きな難点がありました。

レオナルドは、まず壁を完全に乾燥させて下地を整え、
その上に油や樹脂、あるいは蝋を含んだ顔料をのせ、
さらに高温の熱を加えて絵具を固着させようとしたと考えられています。

後世の記録には、五百人広間に巨大な火鉢などの熱源が運び込まれ、
壁に向けて強い熱が加えられたという証言が残っています。

計画の技術要件

  • 制作場所:ヴェッキオ宮殿「五百人広間」の大壁面(有力説では東側の壁とされる)
  • 画法:古代ローマ風の記述を参考にした実験的な油彩・樹脂系技法
    (いずれにせよ伝統的なフレスコではない)
  • サイズ:幅約17メートル、高さ約7メートル前後と推定される大画面構想
  • 対戦相手:ミケランジェロ『カッシーナの戦い』(こちらも下絵段階で未完)

アンギアーリの戦いはなぜ未完に終わったのか

技術的・安全上の課題:流れ落ちた傑作という伝承

当時の証言に基づけば、この技法の試みは惨憺たる結果に終わったとされています。

16世紀の画家で建築家のジョルジョ・ヴァザーリは、
壁の下半分は熱でうまく固まったものの、熱が届きにくい上部は乾かず、
絵具が溶けて流れ出したと記録しています。

レオナルドは必死に熱を加え続けましたが、
絵は彼の目の前で崩れ落ち、修復できない損傷を負った、ということです。

実は、実際にどこまで彩色が進んでいたのかを示す確かな痕跡はほとんど残っていません。

近年の技術調査や文献研究を踏まえると、
レオナルドは壁の下準備の段階で技術的な問題にぶつかり、
本格的な彩色に到達していなかった可能性が高いという見方もあります。

つまり「壮大な壁画がほぼ完成していた」という一般的なイメージは、
同時代の証言や後世の想像に依存している面があることを押さえておく必要があります。

いずれにせよ、レオナルドが作品の長期保存よりも新技法の実験を優先した結果、
材料特性や物理的な制約に敗れたことだけは確かだと考えられています。

政治的・経済的・社会的要因:未完の放置と上書き

技術面での失敗に加え、周囲の情勢も大きく変化しました。

1506年、レオナルドはフランス王家に招かれ、
未完成の状態でフィレンツェを離れてミラノへ向かいます。

工期遅延はすでに問題化しており、依頼主である共和国側との期待のずれも生じていたとみられます。

1512年になるとフィレンツェ共和国は崩壊し、メディチ家が復帰します。
新たな政権にとっては共和制の勝利を記念する壁画計画はもはや重要度が低く、
継続する理由も薄れていきました。

さらに16世紀半ば、コジモ1世のもとでヴァザーリが五百人広間を大改修し、現在の姿に作り替えます。

このとき、もしレオナルドの作業痕が残っていたとしても、
その上から新たな装飾やヴァザーリの壁画「マルチャーノの戦い」が重ねられたことでしょう。

レオナルドの痕跡がどの程度残ったのか、あるいは完全に失われたのかは、今も議論が続くポイントです。

こうして「アンギアーリの戦い」は、物理的にも歴史的にも覆い隠され、
未完のまま姿を消していくことになりました。

アンギアーリの戦いがもし完成していたら

もしその絵が残っていたら、バロック美術の誕生は100年早まっていたかもしれないと言われています。

当時描かれていた未来像:「世界学校」としての壁画

ベンヴェヌート・チェッリーニは、
レオナルドとミケランジェロが描いた下絵(カルトン)が公開された際、
それを「世界の学校」と呼びました。

若手の画家たちが競って模写に通い、
16世紀フィレンツェにおける美術教育の中心的な教材となったことを象徴する表現でした。

もし「アンギアーリの戦い」が完成し、良好な状態で今日まで残っていたら。

その圧倒的な動きと写実性は、のちのバロック美術に見られる激しい感情表現に、
より直接的で大きな影響を与えていた可能性があるでしょう。

実際、ルーベンスは現存する模写(コピーのさらにコピー)から強い刺激を受けており、
これだけでも作品が持っていた潜在的な力を推し量ることができます。

現代からの展望と課題:現代の「未完プロジェクト」としての探索

現代において、この絵画は再び「未完のプロジェクト」として注目されました。

2011年、解析工学者マウリツィオ・セラチーニを中心とする調査チームが、
「ヴァザーリはレオナルドの絵を破壊せず、新しい壁を作ってその裏に隠したのではないか?」
という仮説のもとで調査を行ったのです。

ヴァザーリの壁画に描かれた小さな旗の文字「Cerca Trova(探せ、さらば見つからん)」を手がかりに、
調査チームは高周波レーダーや熱画像カメラといった非破壊検査を行い、
さらに一部の補修部分に小さな穴を開けて内視鏡を差し込む調査も実施しました。

その結果、レオナルド作品に使われた可能性がある黒色顔料が検出され、
「レオナルドの壁画は二重壁の奥に残されているのではないか」という仮説が一気に注目を集めました。

もっとも、「Cerca Trova」をレオナルド保存の暗号と見なせるのか、
また検出された顔料をレオナルド作と結びつけてよいのかについては、
当初から疑問を呈する意見もあったのも事実です。

こうして「世紀の発見」に近づいたかに見えましたが、調査は途中で止まりました。

というのは、ヴァザーリの壁画に穴を開ける行為そのものに批判が集まり、
文化財を傷つける恐れがあるとして、フィレンツェ市当局が追加の調査を許可しなかったからです。

その後、2019年から2020年にかけて、
美術史家や保存科学者による大規模な研究成果が出そろいました。

そこでは、レオナルドが壁の下準備の段階で技術的な限界にぶつかり、
そもそも本格的な彩色にまで進めていなかった可能性が高いこと。

またセラチーニらの調査で採取されたサンプルも、
レオナルド特有のものとは言い切れないことが示されています。

こうした理由から、「壁の裏にレオナルドの大壁画がほぼ完成した状態で残っている」という説には、
現在では疑問視する意見が主流になりつつあります。

とはいえ。

壁の向こう側に何らかの痕跡が残っている可能性そのものは、まだ完全には否定できません。

ただ、作品がどれほど進んでいたのか、
本当に彩色が始まっていたのかを判断できる決定的な証拠は、現時点でも存在しません。

非破壊検査の技術や文献研究がどこまで精度を上げ、こうした不確定要素を解消できるのかが、
今も続くこの「未完のプロジェクト」の焦点になっています。

年表

年月出来事
1440年6月29日アンギアーリの戦い(フィレンツェ軍ほかの連合軍 vs ミラノ軍)。
連合軍の勝利。戦闘自体は比較的短時間で、死傷者は多くなかったとされる。
1503年フィレンツェ共和国ソデリーニが、レオナルドとミケランジェロに五百人広間の壁画制作を依頼。共和国の自由と軍事的勝利を讃える計画として構想される。
1505年頃レオナルド、実験的な油彩・樹脂系技法による壁画制作を開始。
ヴァザーリらの証言によれば乾燥に失敗し上部の絵具が流れ落ちたと伝えられるが、近年の研究では彩色が本格的に進んでいなかった可能性も指摘されている。
1506年レオナルド、未完のままフィレンツェを去りミラノへ。
契約上の延長や政治的配慮をめぐるやりとりの末、事実上の中断状態となる。
1555–1572年ジョルジョ・ヴァザーリが五百人広間の改修を実施。
天井と壁面装飾が現在の姿に近い形で整えられ、自身の絵画『マルチャーノの戦い』などで壁が覆われる。
1975年マウリツィオ・セラチーニがヴァザーリの絵の中に「Cerca Trova」の文字を確認。この発見をきっかけに、レオナルド作品の潜在的残存箇所をめぐる長期調査が始まる。
2011–2012年ナショナルジオグラフィック等の支援で内視鏡調査が実施され、レオナルド作品で用いられたものと類似する可能性がある黒色顔料が検出されたと報告される。
しかし文化財保護の観点から穿孔調査の継続は認められず、プロジェクトは中止。
その後の専門家による再検討で、サンプルはレオナルド固有のものとは言えないとする見解も示される。
2019–2020年多分野の専門家による研究成果がまとめて公表され、レオナルドは壁の準備段階で作業を中止し、彩色段階には入らなかった可能性が高いこと、また「壁の裏に完作の大壁画が残されている」とする仮説に対して懐疑的な評価が示される。

用語解説

カルトン(Cartone)

壁画などを制作する際に用いられる原寸大の下絵。
レオナルドのカルトン自体は失われたが、
ルーベンスらによる模写が現存しており、構図の一部を伝えている。

五百人広間(Salone dei Cinquecento)

ヴェッキオ宮殿内にある巨大なホール。
かつて共和政期の大評議会が開かれた場所で、
のちにメディチ家支配下でヴァザーリによる大規模な改装と装飾が施された。

ジョルジョ・ヴァザーリ

16世紀の画家・建築家・美術史家。
「美術家列伝」の著者として知られ、レオナルドやミケランジェロらについての重要な証言を残した。
同時に五百人広間の改装を担い、レオナルドの作業跡の運命をめぐる議論の中心人物にもなっている。

FAQ

アンギアーリの戦いの絵画はいつ描かれた?

制作が本格的に準備されたのは1503年から1505年頃です。

ただし、どこまで彩色が進んだかについては諸説あります。

ヴァザーリらの証言を重視する立場では
「一部が描かれ、上部が技術的失敗で損なわれた」とされる一方、
近年の技術調査と文献研究を踏まえると、
「壁の準備層で作業が止まり、本格的な彩色には至らなかった」とする説も有力です。

1506年にレオナルドがフィレンツェを去ったことで、いずれにせよ作業は完全に放棄されました。

なぜ発見プロジェクトは中止されたの?

調査のためには、表面にある重要文化財(ヴァザーリの壁画)に
小さな穴を開ける必要があったからです。

2012年までに実施された穿孔と内視鏡調査に対しては、
文化財保護の観点から国内外の専門家や市民から懸念の声が上がりました。

これ以上の調査はヴァザーリの作品を恒久的に損なう恐れがあると判断され、
2012年以降、フィレンツェ市当局などにより許可は取り消されました。

アンギアーリの戦いの死者は本当に少なかった?

歴史家ニッコロ・マキャヴェッリは著書で
「4時間の戦闘で死者は落馬した兵士1名のみ」と皮肉を込めて記しましたが、
これは傭兵主体の戦争を批判するための誇張表現と考えられています。

現代の歴史研究では、実際にはもっと多くの死傷者が出たと推定されているものの、
大規模な皆殺し戦ではなく、比較的限定的な損害で決着した戦いだったとみるのが一般的です。

まとめ

  • 結論:レオナルド・ダ・ヴィンチが構想し、少なくとも壁面準備の段階までは着手したものの、
    技術的な問題と政治状況の変化により、大規模な壁画としては完成しなかった「幻のプロジェクト」。
  • 根拠:1503年前後の委嘱記録や同時代人の証言、後世の模写に加え、
    五百人広間の改修史や近年の技術調査の結果。
    2010年代の内視鏡調査ではレオナルド作品と類似する可能性のある顔料が検出されたと報告された一方で、
    2019–2020年の包括的研究では「本格的な彩色には至らなかった」とする見解も示されている。
  • 未完の理由:実験的な油彩・樹脂系技法が大壁面でうまく機能せず、
    乾燥や定着に致命的な問題が生じたことに加え、
    レオナルド自身の離脱とフィレンツェ政治体制の変化が重なったため。
  • 未来への視点:レオナルドの壁画が壁の裏に何らかの形で残っているとする説と、
    準備段階で終わったとする説が併存しており、
    非破壊検査技術や文献研究の進展によって、今後どこまで実像に迫れるかが注目されている。

もし完成していれば、それはルネサンス美術の到達点の一つとして、
現在とは異なる「美術史の常識」を作っていたかもしれません。

しかし未完で終わったからこそ、「壁の裏に眠るかもしれない傑作」という新たな伝説を生み出し、
500年以上後の私たちをもなお魅了し続けているともいえるでしょう。

参考資料・出典(一次情報・公的資料)

  1. 観測・調査・保存研究
    • National Geographic Society. (2012). Leonardo da Vinci’s Lost “Battle of Anghiari” Found?(2011–2012年の内視鏡調査と顔料分析に関する報告)
    • Uffizi Galleries. (n.d.). The Hall of the Five Hundred. (ウフィツィ美術館公式サイト:五百人広間およびヴェッキオ宮殿の装飾計画に関する解説)
    • Barsanti, R., Belli, G., Ferretti, E., & Frosinini, C. (Eds.). (2019/2020). La Sala Grande di Palazzo Vecchio e la “Battaglia di Anghiari” di Leonardo da Vinci. Dalla configurazione architettonica all’apparato decorativo. Firenze: Leo S. Olschki.(五百人広間とアンギアーリの戦いをめぐる最新の総合研究)
  2. 歴史的記述
    • Giorgio Vasari. (1550/1568). Le Vite de’ più eccellenti pittori, scultori, e architettori.(レオナルドの技法的試みと作品の運命についての証言)
    • Niccolò Machiavelli. (1532). Istorie fiorentine.(アンギアーリの戦いと死者数に関する記述)
  3. 近年の科学的評価・技術論文
    • Pieraccini, M., Mecatti, D., Luzi, G., Seracini, M., Pinelli, G., & Atzeni, C. (2005). Non-contact intrawall penetrating radar for heritage survey: the search of the Battle of Anghiari by Leonardo da Vinci. NDT&E International, 38(2), 151–157.(非接触レーダーによる壁内部探査の技術報告)
    • Opificio delle Pietre Dure(伊・石工細工研究所)ほか(2019–2020)。五百人広間におけるレオナルド作品の残存可能性と技法再検討に関する専門家委員会報告(上記Barsantiら編著に収録)。
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