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【読書レポ】世界は贈与でできている/近内悠太

世界は贈与でできている

資本主義の「すきま」を埋める倫理学

近内悠太
目次

印象に残った部分

他者と共に生きるとは、言語ゲームを一緒に作っていくこと。

僕らが他者を理解できないのは、その人の言語ゲームが見えないから。
自分がすでに知っている手持ちの言語ゲームをその人にも当てはめようとする。

他者理解において僕らがやるべきは、(中略)、その他者がこれまでの人生の中で営んできた言語ゲームを少しずつ教えてもらいながら、一緒に言語ゲームを作っていくことかもしれない。

■言語ゲームを一緒に作る、とは?

本の中で紹介されていた例の中から2つを。

■例1
認知症を患い、徘徊するようになったご婦人。外に出るのを息子が止めようとすると怒って暴れだす。困って介護職員に相談したところ、その職員は、その徘徊の時間が「決まって16時」ということに気づく。それは、「幼かったころの息子が、幼稚園からバスで帰ってくる時刻」だった。
そのことに気づいた後は、「今日は幼稚園のお泊り会だから帰ってこないよ」と言うことで、ご婦人も納得して徘徊することがなくなった、という。

■例2
「ファール」の意味は実はスポーツによって違う。
サッカーの「ファール」は原則、反則のことを指す。
だが、野球のファールは反則のことではない。

サッカーしか知らない人に、野球のファールの瞬間の映像を見せて「これがファールだよ」というと、おそらく「反則なんだな」と思ってしまうだろう。

つまり、自分と相手が全く同じ「言語ゲーム」、つまり「その意味を理解する人生にいた」わけではないからだ。

■言語ゲームを理解する

そんなことも知らないのか

と突き放すことは簡単だけど、言語ゲームが違ったら?
教育、家庭環境、自分の好奇心の向いた先……

見えている世界が全く違えば、言語ゲームも異なる。
それぞれの過去の分だけの言語ゲームがある。ご婦人の徘徊のように、一見「ただの徘徊」と意味のない動作のように見えても、ご婦人は過去を生きていたがゆえに、意味のある行動となっていたという例のように。

それは、人間関係においてはきっと忘れてはいけないことなのだと思う。より親しくなりたいと願う相手であればあるほど。

会社ではきっと言語ゲームをやっていた

会社での話になるが。

会社で後輩や周りの人に何かを教えたり指導する立場になった時も、どちらかといえば一人一人相手に合わせたやり方を考えるようにしていた。無意識のうちにそうしていた部分もあるし、自覚してやっていた部分もあるが。(※マニュアル作成はまた別)
基本的なことは統一するけれど、細かいところは相手の世界を理解しようとしながら進めた方が効果が早い、そう考えていたから。

画一的にすべての人に同じ形の指導をし、相手の背景を知る必要はないと考える人もいる。
それもそれで正しいのだ。深入りせずに、相手の世界を守る、という見方もできるから。

だけど、画一的に教えるということは「自分の枠に入ってこれない人はいらない」と言っていることに等しいのではないか?そして、自分の枠は本当に正しいのか?自分の枠を過信し、相手のせっかくの能力をつぶしていることにならないか?

もちろん、相性の問題もある。
また、相手に致命的にやる気がないケースもあれば、適材適所という言葉があるようにその人が今の場所に合わないだけの場合もある。

だけど、最初から画一的な対応で済ませてもいいものなのか?自分の言語ゲームの世界だけを押し付けていいものなのか?

(こんなことを言っているが、私は基本的に人間関係は苦手だし不得手だ。苦笑)

この本についての総括

正直なところ「わかりやすく書こうとするあまり、却って唐突感が否めない本」。

だが、「贈与」をテーマにする切り口はよかったし、いくつかのテーマ(章)に分かれていて、その章ごとに取り上げられる例が異なるので、自分にとって琴線に触れる箇所、自分自身の行いや考えを言語化したり反省したりさせられる「章」は見つかると思う。
そう、あなたの「言語ゲーム」にはまるテーマがきっと見つかるだろう。
例えば贈与のつもりが、負い目・呪い・自己欺瞞・窒息となるようなところとか。

それでいいのだ。
本を読むという行為に、なにも全部理解しなければならない義務など、ないのだから。

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