「哲仁王后〜俺がクイーン!? 」「風と雲と雨」など、ドラマの題材にもよくなる王の一人「哲宗」。
朝鮮王朝第25代王・哲宗(チョルジョン)は、
庶民として育ちながら突然王に選ばれたという、まさに異色の存在です。
しかし「無能な王」と呼ばれることも多く、その実像はあまり知られていません。
この記事では、哲宗がどのような人物だったのか、
王としての評価、家族構成、子孫の行方、そして韓国ドラマでの描かれ方まで、
Q&A形式でわかりやすく解説します。
史実に基づいた情報だけを丁寧にまとめてみましたので、ぜひ最後までどうぞ♪
哲宗の基本プロフィールとは?生涯の流れをわかりやすく解説

哲宗の基本的なことをまずは知りたいな。
- 朝鮮王朝第25代の国王
- 生涯:1831年7月25日〜1864年1月16日(32歳)
- 治世:1849年〜1863年までの14年間
- 即位名:哲宗(チョルジョン)
本名は「李昪(イ・ビョン)」。
もともとの名前「李元範(イ・ウォンボム)」から即位時に改名。
のちに、正式な皇帝として「章皇帝(チャンファンジェ)」という尊号を与えられました。
哲宗はいつ生まれ、いつ即位したのか?
1831年7月25日(旧暦6月17日)に漢城府(現在のソウル特別市)で生まれました。
そして1849年(憲宗15年)、
前王の憲宗が後継者を残さず死去したことにより、
同年6月9日(旧暦)に19歳で即位することとなりました。
哲宗はどこで育ったのか?本当に庶民として育ったのか?
哲宗は一族が罪人として扱われたため、
幼少期から江華島(カンファド)で庶民と同じように育ちました。
父の李㼅(イ・グァン)は王族としての地位を持たず、
農業や薪割りなどの生活をしており、
哲宗自身も「江華道令(カンファドリョン)」と呼ばれる庶民的な生活を送っていました。
「江華道令(カンファドリョン)」って何?
- 江華(カンファ)=地名。現在の江華島(カンファド)であり、哲宗が幼少期を過ごした島。
- 道令(ドリョン)=青年男子への呼称。
特に両班(ヤンバン)や王族の若い男子に対して「〜令」とつけて呼ぶのが通例でした。
つまり、「江華島で育った若者」=江華道令という意味です。
さらに言えば、哲宗は即位前、以下のような境遇だったことも関係しています。
- 王族ではあったが、傍系(遠い血縁)であり、政治的にも全く注目されていなかった。
- 父・全渓大院君とともに江華島で「島流し」同然の生活をしていた。
- 名目上は「保護」という形だが、実質は世継ぎ候補になり得ない血筋として隔離されていた。
このような背景から、島の人々や役人たちは彼を「江華道令」と呼んで親しみを込めていました。
ですが、王に即位してからは、過去を象徴する名前として皮肉混じりに使われるようになりました。
王でありながら、教養のなさや庶民的な振る舞いが風刺や揶揄の対象になることもあったためです。
哲宗の死因は?亡くなった年齢と最期の様子
哲宗は1864年1月16日(旧暦1863年12月8日)、32歳で亡くなりました。
政治的実権もなかったことから晩年は酒色に溺れ、病床に伏していることが多かったようです。
死後は京畿道高陽の睿陵(イェルン)に埋葬されました。
哲宗はなぜ王になれたのか?即位までの背景と政治の思惑



一族が罪人だったってどういうこと?
そんな人がなんで王様になれたの?



順番に話していくね!
まずね、哲宗の家系も特殊なんだ。



さらに、哲宗の一族、特に父や祖父は、
「政治的な理由で罪人」とされたんだ。
哲宗の家系はどんな系統だったのか?
哲宗の系譜は、朝鮮王朝の中でも王統から外れた傍系であり、
しかも代々庶子(側室の子)の出身です。
哲宗との関係 | 誰? | 備考 |
---|---|---|
曽祖父 | 思悼世子(サドセジャ) | 第21代王である英祖の息子(庶子) ※米びつの中で死んだことで有名 |
祖父 | 恩彦君(ウノングン) ※本名は「李禛(イ・ジン)」 | 思悼世子の庶子 正室の子ではなく、政治的に排除されていた 公式な王統とは遠い存在 |
父 | 全渓大院君(チョンゲ テウォングン) ※本名は「李具(イ・グ)」 | 全渓君の庶子 もとは無位無官の「平民同然」の王族 政治的に罪人扱いされ、江華島へ「幽閉」に近い状態で送られていた |
哲宗の父・全渓大院君はなぜ罪人とされたのか?
当時の朝廷は「正室の血筋」が非常に重要でした。
つまり、いくら「王様の子ども」だとしても、
母親が正室でなければ、その時点で基本的には「王様になれるレース」から外されます。
そんな中、全渓大院君は「庶子の庶子…」という、
主流から外れにも外れまくっている存在です。
ところが、そういった存在でありながらも、
当時の政権を握っていた人たちの「政敵」とされていた勢力と関係がありました。
ゆえに、全渓大院君は政治的に危険視されることとなり、
島流しに近い形で江華島に追いやられ、「準・罪人」のような扱いを受けることとなります。
※このような対応は、朝鮮王朝で「罪人」として扱われたことを意味します。
(名目上は「保護」だったため、明確な刑罰ではないのですが、監視付きの事実上の流刑でした)
哲宗の祖父・恩彦君も罪人だったのか?
哲宗の祖父である恩彦君もまた、罪人として「死刑」に処されています。
というのも、当時の朝廷では「キリスト教(天主教)=邪教」とみなされており、
政治的にも警戒されていました。
そして、恩彦君の妻、そして長男の嫁がキリスト教信徒だったという罪で
恩彦君(祖父)も連座処罰を受け、流刑となり、そこで自決を命じられました。
哲宗はなぜ王に選ばれたのか?安東金氏の政治的狙いとは
父、祖父ともに罪人扱い。
当然、島流しされた先の江華島で暮らしていた哲宗も「罪人の家族」扱いされていました。
しかも庶子の庶子の…
そんな哲宗が、なぜ「王様」として即位できたのでしょうか。
最大の理由としては、
当時、男子王族がほとんど残っていなかったため、
あえてこの「罪人の家系」から王を選ぶしかなかったというのが、実情のようです。
それ以外にも、以下の要素が絡んでいたとも言われています。
- 哲宗の即位は、血統が遠く政治的に無害(操りやすい)と見なされた
- 純元王后(※)が権力を維持するため、「従順で無力な若者」を探していた
- 順祖の王妃・純元王后が王族の中から唯一の血筋
- 一応、他にも候補となった王族もいたが、身分や年齢から哲宗が選ばれた
※純元王后
第23代王純祖の王妃(正室)、第24代王憲宗の祖母。
哲宗のことは純祖と自分の養子として迎え入れる。
→つまり、哲宗からみれば「養母」。



いくら王族男子が絶滅状態だったとはいえ…
順調に即位できたの?



朝廷内ではやっぱり反発もあったみたいだよ。
だけど、純元王后の強い意志で実現したんだ。



実際、政治はどうだったんだろう?



残念ながら…形式的な存在でしかなかったんだ。
傀儡王と呼ばれることも多かったみたいだね。
そのことについては次の章で話していくよ。
哲宗の治世には何があった?政治の実情と社会の動き
実際、哲宗が王様に即位してからはどのような政治が行われていたのでしょうか。
哲宗は実際に政治の実権を握っていたのか?
さて、哲宗が即位したのは、前王・憲宗が若くして亡くなった1849年のことでした。
しかし、哲宗は前述の通り、王位継承からは遠い存在だったことと、
江華島に流されていたこともあり、正式な教育を受けたことはありませんでした。
当然ながら、政治の経験もまったくありません。
結局「傀儡王」と呼ばれるような形となります。
垂簾聴政(すいれんちょうせい)時代
即位当初から約3年間(1849〜1852年頃)までは、
祖母にあたる純元王后(スヌォンワンフ)が政治を代行します。
これは「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」と呼ばれるもので、
王が幼少または無力な場合に、太后や大王大妃がすだれ越しに政務を指示する制度です。
勢道(せいどう)政治時代
その後、哲宗は形式的には親政(しんせい)=自ら政治を行う体制に移行します。
ですが、実際には彼が主導した政策や改革はほとんどありませんでした。
最大の理由は、哲宗が政治的に未熟で、実務能力も不足していたことです。
結局、純元王后の出身一族でもある安東金氏が実権を握り、政治を主導していました(勢道政治)
安東金氏は、王室と婚姻を結ぶことで政権中枢を独占し、
数十年にわたって実権を握り続けてきた貴族階級です。
また、哲宗の妃である哲容王后 金氏も安東金氏の一族でした。
このように、政権内の要職は安東金氏一族で埋め尽くされていました。
つまり、
表面的には王が政治を行っているように見えても、
実際には安東金氏が国家の意思決定を主導していたのです。
このようにして、
哲宗の治世は「王権の空洞化」と「外戚政治の強化」が進んだ時代となりました。
腐敗が進んでいくこととなります。
哲宗はどのような改革を試みたのか?
政治の実権は安東金氏に握られていた哲宗は何の努力もしなかったのか?というと、
そういうわけでもないようです。
貧民救済や被災民救済に特別な関心を見せ、
民乱の収拾や三政の乱れを正すための努力は惜しまなかったと言われています。
- 飢饉対策
- 財政の節約と貧官汚吏(いわゆる汚職役人)の懲罰を厳命
- 一千余戸が火事になった時は、銀銭と薬剤を支給して救済
- 水害にあった被災民も救済
このように、色々と誠意を尽くしていたのです。
ですが、現実には既得権益層の反発により、実行しきることは難しかったようです。
そう、腐敗政治の大元である安東・金氏一族による勢道政治を正すことは、結局できませんでした。
安東金氏一族はあまりにも強力な勢力であり、
哲宗が彼らを正す力を伸ばすことは実質的に不可能な状態だったからです。



哲宗は哲宗なりに頑張ってきたんだけど、
とうとう最後まで勢道政治を正すことはできなかった。
そうしているうちに、投げやりになってきたんだろうね。
晩年はお酒と宮女たちに溺れて、政治もおろそかになって、
結局体を壊して、32歳という若さで亡くなってしまうんだ。
哲宗の評価はどう変化してきた?名君か無能かを検証



哲宗はどういう評価を受けたの?
暴君ではなかったみたいだけど。



ここまで説明した通り、「名君」とは言えないよね。
かといって、「無能な王様」と言い切るには…
という感じかな。
哲宗は「名君」と呼ぶには厳しい見方が多く、
といえ、「無能な王」と断じるにはあまりに複雑な背景があります。
先ほども説明しましたが、以下の前提条件を忘れてはいけないでしょう。
- 哲宗は正統な王位継承の流れではなく、異例の形で即位している。
哲宗の出自は王統の主流から外れた“傍系”であり、しかも庶子の家系であった。 - 江華島で一般人と同じように生活していており、王族血しての教育を受けていない。
- 安東金氏一族の政治的思惑の中で、
「血筋よりも操作しやすい人物」が必要とされた末に、強引に選ばれてしまっただけ。
そんな流れの中、哲宗が政治の主導権を握ることは最後までできなかったのは
仕方のないことだったとも言えるでしょう。
ですが。
そんな苦境の中でも、哲宗が民衆の苦しみに理解を示し、改革を試みた事実も見逃せません。
よって、現在は以下のように評価されているようです。
政治的実績に乏しいが、それは本人の資質の問題というよりは、出自や環境による制約が大きかった。
そんな中でも、王としての役割を果たし、民に寄り添おうとした姿勢が再評価されている。
哲宗の家族構成は?家族の運命と王統のゆくえ



哲宗の子どもが跡を継いで王様になったりしなかったの?



残念ながら…。
子どもはたくさんいたんだけど、
みんな早くして亡くなっているんだ。
哲宗の子どもたちの多くが幼くして命を落とし、王統は彼の代で断絶しました。
簡単にまとめると、このような感じです。
- 正室である哲仁王后 金氏との間には、1858年に元子・李隆俊(イ・ユンジュン)が誕生。
しかし、生後6か月で夭折。 - 複数の後宮との間にも子どもは生まれたが、いずれも若くして亡くなる。
確認されているだけでも、息子が5人、娘が6人存在していたようですが、
そのほとんどが出生後まもなく、または幼少期に亡くなっています。
唯一、後宮・淑儀范氏の娘、永恵翁主(ヨンヘオンジュ)がそれなりに長く生き、婚姻もしました。
しかし、彼女は子どもを残すことなく、14歳で亡くなりました。
これにより、哲宗の直系子孫は完全に絶えてしまったのです。
哲宗の死後は、第17代王だった孝宗の弟・麟坪大君の、8世も先の孫にあたる高宗に引き継がれました。
哲宗は韓国ドラマでどう描かれている?



哲宗が出てくる、彼が題材のドラマって結構あるよね。
どんな感じ?



多くは、傀儡として描かれているよ。
哲宗はその波乱に満ちた人生ゆえに、韓国の歴史ドラマでもしばしば題材となるようです。
- 風雲(1982年)
- Dr.JIN(2012年)
- 風と雲と雨(2020年)
- 哲仁王后~俺がクイーン!?(2020年)
これらのドラマでは、哲宗は多くの場合「名ばかりの王」として、
また「安東金氏の傀儡」として描かれています。
最近、人気を博した「哲仁王后~俺がクイーン!?」では、
王としての自覚や葛藤、そして後半にかけての成長など、
史実にフィクションを交えながら人間味のあるキャラクターとして表現されています。



あくまでもドラマだからね。
実際の哲宗とは異なる部分も多いよ。



こうしたフィクションと史実の交差が、
現代の視聴者に哲宗という人物の存在を改めて
知らしめるきっかけとなっているのかもね。
あとがき
哲宗という王をたどると、
名君とも無能とも一言では片づけられない、その生い立ちと時代の重さが見えてきます。
政権を動かす力は持てなかったとしても、
民を思い、改革に向き合おうとした姿勢は確かに残されています。
だからこそ、哲宗もまたドラマの題材として使われやすいのかもしれませんね。